HOME 

清傅寺

せいでんじ

〒959-0171燕市溝古新79

TEL 0256-93-3478 / FAX0256-93-3478

開基

元文二年(1737)に書かれた由緒書には

初代圓壽は、能登国輪島の真行寺院中より出でて、暫く越後国石瀬村に居住しましたが、慶長年中(1596~1615)に現在地(燕市溝古新)に移った

とあります。「寺院明細帳」には文禄二年(1593)創立とありますので、越後に来たのはこの頃と思われます。平成六年(1994)の本堂新築の際に、開基仏の阿弥陀如来像の修復が行われましたが、その台座底部に、仏師の名前と「慶長元年」の墨字が見つかったことから、この慶長元年(1596)を開基としています。

沿革

四代願了の時、新井の願生寺と高田の浄興寺との間で教義を巡る対立が起こりました。

この時、清傳寺は蒲原地方で願生寺を支持した中心寺院でした。しかし、貞享二年(1685)6月17日に願生寺が東本願寺より取り潰しの処分を受けるに至り、この処分に憤った他の48ヶ寺と共に同年10月3日、真宗佛光寺派に改派しました。その後、この争いは江戸寺社奉行所に持ち込まれ、貞享五年(1688)8月18日、四代願了は幕府より脱衣の上、江戸・京都・越後一国追放の処分を受け、その妻子も村上藩領から追放されました。17年の間この処分は解かれませんでした。

一時は壊滅的な打撃を受けた清傳寺でしたが、その後は力強く寺門興隆の歩みを進めました。

  • 五代是空は正徳五年(1715)に鐘楼を完成させ
  • 六代普門は延享三年(1746)本堂を新築し、美濃派の俳人としても名を馳せました
  • 九代観国は医学にも通じ、漢詩を通して良寛とも親しく交流しました
  • 十六代清淳は、平成六年(1994)に本堂新築を果たしました

挨拶

清傳寺は、開基以来一度も火災や災害に遭うことなく現在に至っています。そのおかげで、大量の古文書や書籍、多くの法宝物を所蔵しています。それらを後世に伝えるために、内容を整理し読み解くことに力を注いでいます。

その中の佛光寺への改派に関する文書類は、令和二年(2020)五月に『越後の願生寺安心事件-清傳寺文書群-』として発刊、令和五年(2023)12月完成の願生寺編『新・願生寺正鑑』に論文を寄稿することができました。地元では、古文書類を生かして「楽しく学ぶ地域の歴史講座」を開催し、地域貢献を果たしています。